〝音斎処〟

I Want A Music Using Rear Laser Audio


ちょと考えてみた;

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 もう一般的には死語になってしまったが〝エアチェック〟という言葉がある。Macの辞書で調べると『エアチェック air-check;放送番組を受信し録音・録画すること』とある。私がこの言葉を普通に使っていた頃はまだ、誰もが録画装置を持っていた時代ではなかったので、エアチェックといえば基本的にはFMチューナーから音楽番組を録音することだった。その少し前、高校受験の勉強をしながら聴いていたAMラジオの深夜放送で流れてくる気になる曲を、オープン形式のテープレコーダーで録音するのが、私にとってのエアチェック事始めだった。カセットテープレコーダーはまだ高額でラジカセなんてものはまだ出現してなかった時代だ。
 
 そんな時代のエアチェックと現今流行の違法ダウンロード
...この二つの行為、似て非なるものだと思うのでそのことをちょっと考えてみた。

 一見、どちらもタダで楽曲を複製して楽しむ行為であり、同じに思うかもしれないが、決定的な違いが二つほどあるように思う。一つには音の質、いま一つは取得の手間、である。

 エアチェックの場合、音源は基本的にAM或いはFMのラジオ電波である。したがって音の質は受信場所や受信装置の状態で大きく左右され、また原音(その音のソースであるレコードの音)に比べれば確実に劣っているといえる。『エアチェックで得られる音の質 < ソースの音の質』の不等式が成り立つわけだ。他方、ダウンロードで得られる音の質に関しては『ダウンロードで得られる音の質 = ソースの音の質』という等式が成り立つ。その理由は明らかで、これがデジタル技術の最大のメリットであるわけだ。この不等式、等式を少し書き変えてみると、このことの本質がもう少しわかりやすくなるかもしれない。

『エアチェックで複製として得られる音質 < 商品であるソースの音質』
『ダウンロードで複製として得られる音質 = 商品であるソースの音質』

この式から読み取れるのは、アナログとデジタルの音情報の差異であるとともに、それが販売に及ぼす要因であろう。

 エアチェックの時代、つまりアナログ時代には常に商品の方が品質が高かったわけです。それゆえ、ラジオ放送の音楽番組で音源を流すメリットがあったわけであり、エアチェックという行為が楽曲販売のプロモーションとなり得たわけだ。実際ラジオで聴いてレコードを買うというのは普通の感覚だった。そもそも、商品の方がオマケよりも品質が良くって当たり前、グリコだってオマケはあくまでもオマケであって、オマケがあるからグリコの品質が高くなるわけではない…というのが、その時代の一般的な共通知であり共通価値であったのだ。
 ダウンロードの時代、つまりデジタル時代になると商品とその複製物の間に品質の差がなくなってしまったわけだ。これは、売り手にとっては販促や物流にかかる費用が大幅削減できるメリットが得られたわけで、つまり儲けを大きくできるという目先の利益があったわけだ。ところが、そのメリットそのものがデメリットでもあり、結果として楽曲販売の低迷が起きてしまった。
 さきに書いたごとく、グリコのオマケはあくまでオマケ、という共通知が、レコードジャケットはオマケ、といった感覚を蔓延させたのかもしれない。オマケを省けばそれだけ儲かる…しかも、商品はデジタルデータで複製簡単だし、売れたら丸儲け的な感覚である。こうした売り手の感覚はすぐに買い手の感覚として現れ、やったーコピーの手間めっちゃ省ける〜的にCDの販売額にもろに影響を与える事態になってしまったと思われる。

「作り手」・「使い手」、「売り手」・「買い手」、どちらもが時間と手間をかけてこそ初めて対等な関係が築かれる。どちらかが手間を省けば対等な関係は崩れ、結果としてレベルの低い対等な関係が出現する…そんな事なのではないだろうか。

 エアチェックの時代には、流れてくる楽曲を聴きながら、自分の気に入った曲のみを録音するという行為が普通だった。つまり、自分の好きな曲を手に入れるのに随分手間をかけていたわけだ。録音することも手間であるが、そもそも番組を聴くという行為も手間である。
 今ではそんな必要はない。どこかの音楽番組で知った楽曲名を、インターネットに繋がった個人用コンピュータや個人専用持ち歩き電話装置に入力してやれば、すぐにその在りかが見つかって、自分のものにしたり或はその場で聴いたりできるのだ。だから、手間が無いとは言わないが、手間と同じくらいに思入れが少ない。その手間すら厭う御仁も少なくないと聞く。つまり音楽に思い入れなど不必要というわけだ。
「学生の頃友人からレコードも買ってないのにファンなの?」「そんなのレコード買って聴いてから言ってよ」って言われたことがあるけど、今は通用しない感覚だ。同じCD何枚も買って一度も聴かないで捨てて、握手だけしてる人がファンと呼ばれるご時世だし、そのグループのCDを何枚聴かずに捨てたかがそのグループ自身から評価され幾度も握手をしてもらえるご時世だから。

 良いとか悪いとか、どちらがあるべき姿だとか、どちらがより高尚だとかいった問題ではなく、私自身は今のあり方が好きにはなれない。

 パスカルはパンセの中で「人間は考える葦である」と言ったが(この表現は正しく無いな〜 パスカルが言った言葉を死後にまとめたのがパンセだからな〜)

 ただ、その好きになれないというのは、過去も現在も知った上での比較として好きになれない、それを選ばない、ということであって、MP3やハイレゾを知らない・経験してない還暦過ぎの年寄りとして好きになれないのではない。CDのかけ方も知らない現代の若者が、自分がやってる聴き方しか知らなくって言う好きとは同じではない …… そんなことを、今日五人目のビートルズ(の一人)と言われたジョージ・マーチンの逝去を知って、改めて考えてみた。

【注】五人目のビートルズと言われる人物は、私の知ってる限りでも三人ほど存在する(した)。スチュアート・サトクリフ、ブライアン・エプスタイン、ジョージ・マーチン、ピート・ベスト…その中の一人という意味です。
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